江 戸
大永年間
行源法印(大膳院)が、京都より愛宕権現を勧請。(『明細帳』)
文禄年間
八坂神社を愛宕権現内に合祀。(『埼玉の神社』10頁)
江戸中期
1700年代初期において、祇園柱を用いた祭礼が行われていた記録が残っている。(三浦玄昌「汚隆亀鑑」)
寛延3年
4月、名主善兵衛以下109名が、祭りを町内一斉に行なうものとするよう町役人に上申。これに尽力した宿役人による祭事御用番「熊谷草分け6人衆」が誕生。
祭りは、奴稲荷大明神が所有していた宮神輿を用いる、神輿祭りの形態であったとされる。(「熊谷宿祇園祭礼神輿渡御由来覚」)
天保元年
大膳院十五代と石川兵左衛門が浄財を集め、初めて町衆により愛宕八坂神社の神輿が製作される。
江戸末期
夏の祭礼行事は神輿祭りとして定着し、多くの町人が参加するようになる。江戸風の騒がしさが増すようになった。
明 治
24年
本町三四(現・第弐本町区)が、江戸神田の紺屋が個人所有する山車を買い受ける。この頃、泉屋横町の料亭「泉州楼」の主人が、名入れの渋うちわを配り好評を博す。
27年
鎌倉区が山車を製作。この時期から、地区内における小規模の山車巡行の行事が行われる。
31年
本町一二(現・第壱本町区)が地元棟梁に頼み、本町三四の山車を参考にして山車を製作。
35年
筑波区が鴻巣より130円で山車を購入。大正5年に製作する山車は、昭和35年まで使用される。
39年
旧5カ町制(本町一二、本町三四、筑波区、鎌倉区、仲町区)が成立し、年番町制のの基礎 ができる。
大 正
13年
銀座区、彌生町区が屋台を製作。旧5カ町に加え彌生町区が祭礼行事に参加。
大正〜
昭和初期
石原村に、上・中・下町三台の屋台が存在していた。その内の2台は、現在の群馬県藤岡市(旧鬼石町)の祭りで使用されている。
昭 和
8年
熊谷市制施行を契機に、旧石原村の本石区と石原区が巡行行事に参加。
12年
石原区が、熊谷唯一の四方破風屋根屋台を製作。
本石区が、屋台を製作。
20年
8月14日から15日未明、終戦直前の大空襲により愛宕八坂神社・宮神輿と、鎌倉区の屋台が焼失。
22年
荒川区、銀座区が復興の勢いで祭礼行事に参加し、現在の年番町を担う8カ町制(本町一二、本町三四、筑波区、鎌倉区、仲町区、彌生町区、荒川区、銀座区)が成立。
荒川区が屋台を製作。
23年
彌生町区岡田屋の宮大工小林棟梁により、愛宕八坂神社神輿を新調。
32年
鎌倉区が年番町を担ったこの年から「大総代」の名称を採用。
34年
2月、七町区(本町一二、本町三四、筑波区、鎌倉区、彌生町区、荒川区、銀座区)の若連支部長が発起人となり「熊谷祇園会」を発足。その後、筑波区、仲町区、石原区を除く、9町区によって構成されることになった。
35年
伊勢町区が、仲町区から譲り受けた小型屋台で巡行行事に参加する。
36年
お仮屋(行宮)の位置が本町2丁目から3丁目電話局前に移される。
筑波区が山車を製作。
39年
17号国道交通頻繁となり横断以外山車屋台の巡行禁止になる。
42年
「お祭り広場」名称が8カ町会議で決定される。「年番送り」行事が始まる。
48年
10月、東京銀座まつりに「うちわ祭」が出場。
49年
17号国道、歩行者天国となり国道上山車屋台巡行復活。
51年
8月、明治神宮外苑「日本の祭」にうちわ祭が出演。
55年
櫻町区が伊勢町から小型屋台を譲り受け、巡行行事に参加する。
8月、第1回まつり・イン・ハワイに「うちわ祭」が出演。
平 成
2年
4月、大阪国際花と緑の博覧会に「うちわ祭」が出場。
6年
銀座区が山車を製作。
櫻町区が屋台を製作。(旧屋台、吹上へ)
7月、京都平安建都千二百年記念事業の全国祇園祭山笠巡行に「うちわ祭」が出場。
15年
11月、江戸開府四百年記念事業の江戸天下祭に「うちわ祭」が出場。
16年
9月、彩の国まごころ国体に「うちわ祭」が出場。
17年
10月、江戸天下祭2005に「うちわ祭」が出場。
令 和
元年
5月、天皇陛下御即位奉祝神輿・山車巡行。
9月、ラグビーワールドカップ2019に「うちわ祭」が出場。
2年
コロナ禍にともなう自粛により、本宮にて神事のみを執り行う。